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【聖書の話】荒野と神様といっしょ

まりももんが

はい、皆さんこんにちは。

 

前回、新年度が11月とお伝えしましたね。

あの時は北海道エルサレム教会の御言葉を皆様と分かち合いましたね。

 

今回は群れ全体の御言葉を分かち合っていきたいと思います。

 

私たちが今年度神様から与えられた御言葉は

申命記1章40節「あなたがたは向きを変え、葦の海への道を荒野に向かって旅立て。」

 

はい。しんどくなるほどの裁きの聖書箇所ですね。

 

この聖書箇所は要点掻い摘んでお話しすると

 

①イスラエルの民がカナンの地を占領しなさいと神様に命令受ける

 

②イスラエルの民カナンの地を偵察しに行く

 

③大きく巨人がカナンの地に住んでいた。どう見ても勝てなさそう。

 

④イスラエル「無理!!やめよう占領!!」

ヨシュア&カレブ「いけますよ!神様が語ったんだから!!」

イスラエル「こいつ殺そう」石打じゃーっとヨシュア&カレブに襲い掛かる

 

⑤神様激おこ

 

⑥神「お前ら私の言葉を信じなかったな、失格。カナンの反対方向、荒野に向かって旅立て。お前らの次の世代にカナンの地継がせるから」

イスラエルの民「そんなー!!!!!今からでもカナンの地占領するから許してください!」

神「だめ

 

⑦イスラエルの民は失ったものの大きさ故に急いでカナンの地を侵略しようとしたが

もはや神の言葉は『失格』の烙印を押された後だったがため、占領できず、セイルで打ち破られた。

ヨシュア&カレブ「…」←この人たちだけカナンの地に入ることになる。

 

というおおまかな流れの中で語られたのが、今回の御言葉の箇所申命記1章40節「あなたがたは向きを変え、葦の海への道を荒野に向かって旅立て。」

 

どう見ても裁きの箇所です。

 

しかし、この箇所を裁きの箇所ととらえつつ、今回与えられた御言葉の箇所から

神様が何をもってこの言葉を我々に与えたのか。

また神が私たちを導くところはどこかをともに分かち合っていきたいと思います。

 

 

今回我々の群れの長老から与えられたこの聖書箇所。

たしかにどう見ても裁きの箇所であり、祝福の箇所ではありません。

 

しかしなぜ神様があえてここを選び私たちに与えたのかを考えていきたいと思います。

 

聖書ではイスラエルの民がカナンの地を目の前にして、荒野へ逆戻りする。

それはあともう少しで約束の地を得ようとしていたのに、不従順故に40年間も荒野をさまようことになってしまった。

まさに人間的に言えば「悲劇」や「痛み」や「後悔」などがふさわしい流れの箇所ですね。

 

しかし、この40年間を聖書を通してみると不思議なことに。

 

『神がともに居る40年間』なんですよね。

 

確かに不従順で失敗した民たちでしたが、着物が擦り切れず

ご飯もたしかに足りないことがなかった神の恵みが確かに存在した40年間だったんです。

 

そう失敗しても神様はイスラエルの民達とともに居続けたのです。

 

そして40年後彼らの次の世代がカナンの地を占領するまでの間ずっと荒野で神様はイスラエルの民を養い続けたのです。

 

 

今回なぜこの箇所が選ばれたのか、確かな理由はまだ理解できてないかもしれない。

 

しかし今の世界情勢を見てみると少し理解できる部分があります。

 

それはこの世の中が終末に入り

 

終末の世の中で良いとされることはすべて神に反することであり

終末の世の中で悪いとされることは時に神の御心に叶うこともある。

 

つまり完全に世界中が神様に反発し「神などいない!」と声高らかにいう時代に入っている。

 

LGBT等一つとってもキリスト教徒であるならば、反聖書的な同性愛は非常に悪しきこととして聖書に書かれている。

 

神の御心は、結婚は男女間のみである。

 

しかし終末は同性愛が当たり前になり、それを認めないキリスト教や教会は「愛がない」などと言われることになる。

 

まさに世に従うなら、世に適応するなら聖書を捨てろ、と言わんばかりである。

 

しかしこんな世の中でもし今回語られた聖書の御言葉を見てみるなら

申命記1章40節「あなたがたは向きを変え、葦の海への道を荒野に向かって旅立て。」

 

今の世界は終末直前であり

神様の御心を大きくそれも最悪な形で損なっている。

 

世の中で認められてLGBTも受け入れて愛情深い人に見られたいか(カナンの地)

世の中にはじかれてLGBTも受け入れない狭い人間に見られるのを覚悟するか(荒野)

 

そういった流れにも見ることが出来るかもしれませんね。

 

だから

 

向きを変えて世に刃向かうことになっても

たとえそこが荒野であっても

 

神がともに居る道へあなた方は行きなさい。

 

たとえ、そこが荒野で

 

たとえ多くの人からは愚か者あつかいされても

 

そこに神がいるならば

 

必ず私たちは何らかの形で養われていく。

 

神がいない美しいように見せかけてる世の中よりも

 

荒野でも、苦しい道でも、神がいる方を選びなさい。

 

ということなのかもしれない。

 

たしかにこの御言葉だけをそのまま受け取るなら裁きです。

しかも失格の箇所です。

 

しかしそれを踏まえてみてみる。

神様のメッセージを何とかして振り絞るなら。

 

もしかしたら今年度は黙示録の時代に入ってもおかしくないかもしれません。

 

それは私達が荒野へ進むための神様からの御言葉なのかもしれない。

 

もし黙示録が始まれば、荒野どころの騒ぎではないかもしれない。

しかし、どんな時代でも神を信じるクリスチャンのそばには必ず神様がいる。

 

だからこそ、この御言葉は私たちが今年度を生き切った時にわかる御言葉なのかもしれない。

 

 

今回の御言葉は聞いた時には驚きました(お茶吹きました)

 

しかし、与えられた御言葉を謙虚に見ていくとき、たとえ裁きの箇所でも私たちに示すメッセージ性がたしかに聖書にはあるということを共に学んでいきたいと思います。

 

もし今年度黙示録にはいるならば

もし今年度(艱難前ならば)携挙があるならば

 

やはり我々クリスチャンはどんな時でも神様に愛される存在であることには変わりないということを覚えて

この終末の荒野を歩み切っていきたいとおもいます。

 

 

さて、いままで黙示録や終末の時代こうなるだろうと言われていた様々な事柄がありますが

もし生きていく中で「向き」をかえざなるえないなら

世の中に動いていく「向き」ではない方向へ行かなければならないでしょう。

 

クリスチャンとして。

 
 
The Light of Eternal Agape 北海道エルサレム教会はプロテスタントのカリスマの教会です。

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